おしまい日記

日常の終わりとはじまり

賞や大会において、大まかな条件の他に、細かくルールを設けられていないものは、

主催側の『伝統や文化を意識しつつも、新しい風を吹かせてほしい』という期待と、

観客側の『見たことないものを見せてほしい』という願いが込められているのだと思う。

 

そういう賞や大会に挑む人々の参加理由を述べるとしたら、まあ賞金がもらえたりとか、地位や名声がほしいとか、分かりやすいものももちろんあるけれど、自分が考える一番大きな理由が、「審査員」・「観客」・「自分」の面白いと捉える感覚が合致して、世間に認められたときの気持ちよさや存在の肯定感みたいなものが大きいのではないかなと。

 

そしてそれは、大会が開催されている間の『瞬間的』なものであって、あとで冷静になって振り返ると、『なんであれに票を入れたのだろう』とか『なんであれをそこまで面白いと思ったのだろう』とか『別のものをこしらえて挑むべきだった』とか思ってしまうのかもしれない。

 

でもそれは当たり前のことだ。

冷静になってしまった頭で振り返ると、瞬間的に爆発したものの理由の全てを、矛盾なく説明できるわけがないのだ。宇宙の誕生の謎みたいなもの。(うまいたとえが出てこなかった)

 

けれど、その『瞬間』に大きなムーブメントを起こし、インパクトを残したことは、人々の記憶に共有される。

それって素晴らしい事だと思う。

 

「いい根性している」

これには、称賛と皮肉の意味がある。

「根性」をgoo辞書で調べると、物事をあくまでやりとおす、たくましい精神。気力。と書いてあった。

人々や物事の「お決まり」や「ルール」に縛られることなく、臆することなく、新しい風を吹かせ続けてきた人に、そのように言われていた。

そのあとに続けた言葉からして、それは「ここにまできて、俺にこんなものを見せやがって」って意味ではもちろんないことが分かる。

「ここにまできて、俺と世間にこれを見せにきたんか。度肝抜かれた。すごい。やるやないか」って評したのだと思う。

それに対しては「だってここにまできてやりたかったんだもん」って返せばいいと思う。

それが「従来のものややり方と違う」のであれば、

「うるせえ。てめえらの抱くぼんやりとした願望を形に変えて期待に応えてきてやったんやぞ」と堂々と胸を張って言えばいいと思う。

 

自分らのやり方で起こした奇跡に対して、絶対にこれから気後れすることなく、恥ずることなく、自由に羽ばたいてほしい。

そもそも参加資格さえあれば、手綱を握っているのはこちら側だ。

これからもたくさんの人を巻き込み、むしろこちら側のムーブメントに参加させてやればいいのだ!(^^)!